夜の悪魔


世界が真っ暗だった頃、頭上に浮かぶ深い深い闇を、人々は「夜」と呼んでいました。

夜というものは、悪魔達の巣でした。
人間は悪魔から逃れるためになるべく家からは出ないようにしていましたし、余計な体力を使わないで済むように眠っていることが多かったそうです。


けれども、悪魔とは傲慢で欲深い生き物でしたから、こっそり夢の中に潜り込み、悪夢を見せては人の恐怖心を餌にしていました。


この様に、人間が悪魔に脅かされる日々が続いていましたが、どうしてかこのごろ、一人の少女が夜中にこっそりと窓越しに悪魔達を観察しているようでした。


幾万の蝋燭がゆらゆら揺らめく、濃紺の壁。生暖かい風の絨毯。
少女の瞳には、背の高い玉座の上から、青く冷たい目をした王子様が何もかもを照らしているようにも見えました。

世界がお城になったようだわ

悪魔達の蝙蝠のような翼が音を刻むたび、少女はうっとりと目を細めました。

少女は悪魔に一種の憧れを抱いていました。
何より己の欲に従い、つまらないことなど考えない。悪魔の中には一人だって嘆くものはいないのです。

少女は、毎日、毎日、悪魔達を眺めました。

そしてまた、その少女を毎日、毎日、眺めるものがいました。

「また、あのお嬢さんは、此方を見詰めている…」

彼は、自身が悪魔であることを恥じていました。
これがお前の姿だとでも言うかのように月光によって落とされた影は、彼の心に大きな穴を開けました。

月光に照らされるたび、その金色の瞳に全てを見透かされているような気になってしまう。悪魔である私を、嘲笑っているに違いないのだ。
こんなにも汚れた私を、一体何方が愛してくれよう。
ああ、なんて、なんて、残酷。
何故、神様は私を人間にしてくれなかったのだろうか。

その様な具合でしたから、彼は人間に強い憧れを抱いておりました。
彼は他の悪魔達とは一切の関係を持たず、ただ独り、街で一番高い時計台の中に住んでおりましたが、このごろ無用心にもカーテンを開けて夜空を眺めている一人の少女が気にかかっていました。

不思議なことに彼以外の誰も、その事には気付いていませんでした。しかしそれも時間の問題であろうと考えた彼は、ある日、彼女の家に行くことにしました。


「今晩は、お嬢さん」

例によって人付き合いの苦手な彼でしたから、心臓が震えてしまうほどの緊張感を握り締め、やっと、やっと、というように深く頭を下げました。

少女は目をまんまるにして驚きました。それから、自分が食べられてしまうかもしれないという恐怖で、ふるふると震えだしました。

「安心してください。私は貴女を食べるつもりはありません。貴女と少し話がしたいのです」

それを聞いた少女は、悪魔が礼儀正しいのを見て少し落ち着きました。
彼は少女を怖がらせないように、ひとつひとつ言葉を選んで、ゆっくりと話しました。

初めは警戒していた少女も次第に緊張を解き、二人は硝子越しの会話に夢中になっていました。そして悪魔が帰る頃になると、少女は彼にまた会いたいと思いました。

「それではまた、明日の午後3時にまた来ます」
「ええ、待っているわ」

それから毎日、午後3時になると悪魔は少女に会いに行きました。彼の悪魔らしくないその態度に少女は幾度も驚かされましたが、次第に彼のことが好きになりました。そして彼もまた、少女に恋をしていました。


幾日か経ったある日、少女は彼に外に行ってみたいと言いました。彼は少女の申し出に、いけないと言いました。

「私、悪魔さんが住む世界を知りたいの。ね、お願いよ」

何度もお願いをされて、彼はしぶしぶ頷きました。

「分かりました。何かありましたら私が命に換えてもお守り致しましょう。貴女が人間だと気付かれないために、夜色の服を着てください」

それから彼女は夜色のワンピースを身にまとい、翼に見立てた夜色の襟巻きを首に巻きました。
彼は少女を軽々と抱き上げると、そのまま夜の中にふわりと舞い上がりました。
悪魔達の目を避けながら、二人は踊るように夜の城内を巡りました。そして彼の住む時計台までやってくると、二人は幸福に包まれていました。

「私は天使と言うものを見たことがありません。ですが、きっと貴女のような人のことを天使と言うのでしょうね」

穏やかに笑う二人を見て、月が静かに微笑みました。
そして二人を見ているものがもう一人いることに、二人は気が付きませんでした。

次の日いつものように少女が悪魔を待っていると、突然ぴしゃりと窓硝子が割れ、目の前には悪魔が立っていました。けれどもそれは少女の知っている悪魔ではありませんでした。

「お前のせいで、あいつはとんだ恥晒しだ」

そう言うや否や、少女を悪夢に落とし込みました。ぐったりと倒れた少女を見つけると、両親は悲しみのあまり泣き崩れました。
その表情は月のように青白く、見るに耐えないものでした。

約束の午後3時になり、彼が少女の家にやってきました。硝子が割られているのを見ると恐怖でいっぱいになり、慌てて部屋の中に入りました。
少女の両親が見守る先に、ベッドの上で力なく横たわる少女の姿がありました。

少女は既に悪魔に命を奪われていました。

少女の父親が彼に銃口を向け、「お前のせいだ」と言って引き金を引きました。



その日、ぽろぽろと涙を溢す月のところへ、太陽がやって来ました。
太陽は月に、「そんなに悲しいのなら、1日の半分を私にくれませんか」と言いました。
それから、世界に朝がやって来るようになりました。
太陽が世界を見守っている間、月は二人を思い出して泣いているそうです。